あいでんてぃてぃ・くらいしす。

積み上げてきたものが音を立てて崩れていく。

中村紀洋

今では少し昔の話になりますが、広い地球の片隅の「ぱりーぐ」と呼ばれる世界では野球という競技が日々行われており、鍛え上げた肉体と技術を持ち寄って沢山の猛者達がそこに集結していたものよ。

 

小笠原という選手がいた。剣道の達人が竹刀をそのままバットに持ち替えたかの如く、構えた間合いは感じ取れるほどに鋭く、彼のフルスイングで何人もの投手が犠牲になったのです。

ローズ、カブレラという選手も当時の「ぱりーぐ」を語る上では避けては通れない。両打者が打席に入った時の威圧感は近年の野球界ではきっと感じ取れない。本塁打数が55本に到達したあたりで露骨に勝負を避けられていたのはとても印象的である。

松中という選手いた。平成の三冠王と呼ばれ司法立法行政を司り、当時の「ぱりーぐ」の王様と言ったらこの人かも知れない。イグチ、コクボ、ジョージマと言った配下を従え世界を牛耳り、その国の支配は現代に至るまでである。

 

とまぁ僕ちゃんがお話ししたいのはそれぐらいの年代の話しだ。そんな時代に『中村紀洋』という怪物は紛れておったわい。

 

僕はこの中村紀洋という選手が好きだった。 足を高く上げてバットを振り抜く豪快なバッティングフォーム。スタンドまで届く放物線を放つと同時に放たれるバットは弧を描きファンの記憶にまで放り投げられるのです。

当時の近鉄バファローズのチームカラーの象徴であり近鉄の4番打者と言ったら大抵は彼である。

 

こんな彼は大阪の公立高校でチームを甲子園に導き、高卒4年目で本塁打数は二桁を超え、以降近鉄の主軸打者として活躍。2000年にはHR王と打点王の二冠。翌年46本塁打132打点打率.320という素晴らしい記録を残しましたとさ。めでたしめでたし。

 

という訳にはいかず、翌年FA権を取得した彼は「中村紀洋というブランドをまず考えて、近鉄で終わっていいのか」 との名言を放ちメッツに入団。しかけるも直前で破談。したのだが結局近鉄バファローズの消滅を契機にドジャースに移籍する。その後メジャーではさっぱり活躍できずに一年で帰国。以下、オリックス、中日、楽天、横浜と球団を渡り歩く。日本球界復帰後の活躍についてはあまりぱっとしない成績が目立ち、近鉄時代に稼いだブランドとは程遠いものがある。

 

以上が1人の選手のおおよその末路であるが、これについて、まったく、メジャー挑戦なんてしないでおけば、もう少しは日本球界のレジェンドとして名を馳せることが出来ただろうよ、と考えてしまう。

 

中村の他にも、福留、岩村、西岡など。メジャーになんて挑戦して欲しくなかった選手が沢山いる。生涯日本の野球界で頑張っていれば素晴らしい記録や成績を残せたはずであるのに、メジャーに挑戦してしまったばかりに、日米通算成績で微妙な成績、または一流半ぐらいに落ち着いてしまった強者どもが、夢の跡であります。

 

 まぁ、でも良いのだ。日本でおびただしい活躍をしてました選手がメジャーに挑戦しようとする気持ちはまだ分かる。しかし、建山とか福盛といった野球ファンでなければ名前が出てこないであろう面々。日本球界でも決して群を抜いて活躍できたという訳ではない彼らは、何の為に渡米したのだろうか。本人にそのつもりはなかったのだが、球団の手続き上のミスで仕方なく登板させられたとかではないのか?

 

 私は思う。きっと建山にも福盛にもブランドがあったのだ。それまでに野球選手として歩んできた道のりと自負が。

 

非凡の才能を持ち、非凡の努力をした者の中で、プロ野球選手となることができるのは僅かにも満たない者だけである。仮にプロ野球選手になれたとしても、殆どはレギュラーにはなれず、ある者は一度も一軍に上がれず、名前も知られぬままに球界を去っていく。

 

そのような選手であっても、大半はチームの主力として甲子園で活躍したり、地域では名の通った有名な野球のエリートだったはずでなのだ。多分に期待が寄せられたことだろう。周りからの期待と、そして自分へ向けた期待が。

 

そうとは言っても、プロでは思うように活躍はできない。その内、自らの才能の限界に気づく時が来るだろう。 活躍しきれない現状を受け入れ、それ相応の選手として型にはまっていく。限られた能力の中で細々とやりくりすることを強いられるだろう。

 

しかし、中には幻聴に襲われる者もいる。野球エリートとして歩んできた道のりが、賞賛されてきた過去が、自らに寄せてきた期待が、自分はこのようなスケールで終わるような選手ではないと、己を呼び覚ます。挑戦することがいかに無謀だとしても、実際に現実を手にしてみなければ、現実がどの様な形をしているかを把握できない不器用な人種が存在してしまう。ひどく哀れだ。そう思う。

 

ところで、今どんな夢を見てますか?

 

夢からはもうさめてしまいましたか?

 

 掌で 握りしめていたはずの夢はいつのまにかしわくちゃになってしまって、元の体裁とはかけ離れてしまったとしても、それでもまだ夢と呼べる代物ですか?