あいでんてぃてぃ・くらいしす。

積み上げてきたものが音を立てて崩れていく。

死んだ友人について

 

ぼけぇ〜っとしてる時に思考に割り込んでくる情報がだいたい3つぐらいある。その内1つがその友人に関することだ。私の中では彼の死をまだ実感できていない節がある。そのうち何処かで何かの拍子で出くわしたりしないだろうかと期待しない訳でもない。

 一言で言えば彼は異質だった。 

本が好きな奴だった。オデュッセイアを笑いながら読んでいた。意味が分からない。

「バカでしょ⁉︎」が口癖の奴だった。存命であれば今頃林修のポジションに彼が立っていたとしても不思議ではない。

家電に明るい奴だった。型番がどうのこうの言っていた。彼が力説していたパソコンの性能の差の話に周りは付いていくことができていなかったのを彼は気づいていただろうか。

帰るのが早い奴だった。帰りのHRが終わった瞬間に教室から飛び出し、皆が漸く席を立つ頃には彼は既に靴を履き替えていた。帰宅部のエースを自負していた当時の私にとって彼が唯一の障害であった。たまに一緒に帰ったりもしたが、殆どは誘う間もなく教室から既にいない。待ってくれれば良いものを、と思わないこともなかった。

 そんな彼の訃報が入ったのは数年前の秋の夏休みの終わり頃だった。

彼が死んだ。葬式があるそうだ。電話口でそう告げられた。当時は東京の大学に通っていた都合で通夜には参列できず、告別式だけ参加した。通夜の段階では彼はまだ彼の原形を留めていたそうだが、告別式の段階では既に灰になってしまった後だった。

彼の写真の前での焼香は私にとっては形だけのものであって、結局、彼の死そのものに直面できる機会はなかった。死顔でも拝んでいれば素直に彼の死を理解することが出来たのかもしれないが、彼が死んだという証拠を私に明示するものはなかった。

或いは墓石に刻まれた彼の名前を見ればそれを信じる気になれるかも知れない。しかしまだそれを見るに至っていない。本の形をしているという彼のお墓の場所が私には分からない。でもそれはそれで良いのかも知れない。そんな訳で証拠はまだ不十分であって特定には至らない。

 

まぁ私の思考はどうであれ彼は死んだに違いないのだろう。彼の性格から私は彼が優秀なサラリーマンか公務員にでもなるものだと思って疑わなかった。会えることこそ少ないだろうがどっかできっと生きていくのだろうと。多分その内、会う機会もあるだろうと。

 早いもので彼が亡くなってから数年が経つ。季節も同じように誰かを待つこともなく、私はつくづくその中に立ち尽くしてばかりであるように思う。

結局私にはさっぱり分からない。どうして君が死ぬ必要があったのだろうか。小野さん!そのお役目、私が代わって引き受ける訳にはいかなかっただろうか?